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兵庫県近代遺跡マップ
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兵庫県在住の古いもの大好き人間です。
車はスバル360、スクーターはラビットに乗っています。
冬場は氷ノ山国際スキー場とちくさ高原スキー場に繰り出します。
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加古川市のニッケ専用線2

2006/01/30 11:38
いきなり第2回目で訂正で申し訳ないが、
ブログ公開後に本格的な調査をしたところ、数々の新事実が判明した。
はじめからきちんと調べておけば良いのだが、
このように新たな新事実が判明していくことも、
廃線跡調査の醍醐味であるとご容赦していただきたい。
また、本来なら第1回目に書くべきであるが、
殆ど記録も見られないこの専用線の調査を、
地元のファンとしてできるだけ記録していきたいと考えております。

まず第一に、加古川を渡る現役時代のニッケ専用線の写真を発見した。
25年近く謎に思い続けて、初めて見た鮮明な写真がコレである。
まずは空中から俯瞰した写真。
画像

これは、昭和30年頃の加古川工場と印南工場を空から見ている。
右に国鉄山陽本線、左にニッケ専用線が見える。
専用線は川を渡った後、右カーブして国鉄線に寄り沿い、
印南工場に入っているのがわかる。
おおー、橋が明確に移っている写真を見たのは初めてだ。うれしい。
細い影が河原に落ちているので、桁は相当薄いものだったようだ。

そして、はじめて対面したのが次の写真だ。
画像

なんとゆうことか・・・・
こんなモノが、実家から犬の散歩で行ける程度の距離にあったのか・・・
実際にここまでポメシバ犬と黒ラブ連れて何度も散歩に行ってるし。
現役トロッコや、かつてトロッコが存在した痕跡を求めて全国を旅し、
トロッコには明るいほうだと自負していたが、
灯台のもとがこんなに暗かったとは、驚き。
やはり身近なところほどミステリーがあるようだ。

しかし、前回掲載の地形図でもそうだが、
印南工場内で異様に軌道がカーブしていることや、
船頭集落内にあった煉瓦橋台が妙に小さかったことから、
「まさかナローなんてこと無いわな」と思っていた。

興奮で頭がボーッとしているが、写真を分析してみたい。
撮影場所は背景に高御蔵山らしき山が見えているので、
加古川工場側から印南工場を眺めている。
軌間は、工夫の靴二足分ぐらいなので、恐らく500mm。
動力は、レール間にワイヤーらしきものと、
等間隔にプーリーと思われるものが見えるので、
おそらく軌道始点(スペース的に印南工場?)
の巻き上げ機でトロを牽引しているのだろう。
トロの台枠に錘つきの横棒が出ているが、
これを工夫が踏むことによって、自走も可能らしい。
トロがワイヤーから外された後の移動は人力に拠ったと思われる。
複線となっているが、トロが往復できるようになっていたようだ。
写真にも数両のトロが写っているが、それだけ運搬量が多かったのか。
その運搬物は、記録によれば「石炭」らしい。
加古川工場で国鉄貨車から荷卸した石炭を、
トロに積み込み、印南工場へ送っていた。
写真では、なにか違うものを乗せているようである。

橋脚は細い鉄製。橋桁は木製かもしれない。
手摺や踏み板は木製だ。
橋脚のコンクリートのピアが近年まで残っていたが、
JR加古川橋梁が架け替えられる際に、
船頭集落の橋台と共に撤去された。
橋の渡り口には立て看板が見える。
工場関係者以外の通行を禁止していたのだろう。
また、橋には照明塔も見える。
24時間操業をしていたのか?

河原に多数の人間がいる様子が見える。
印南工場操業開始時の記念写真か?

この写真により、国鉄宝殿駅からの専用線は、
別物であることがわかった。
宝殿から印南工場内の1067mm専用線(社機関車)と、
印南工場〜加古川工場のナロー、
そして加古川工場内に引き込む専用線1067mmがあったことになる。

次回は工場内の配線の様子を推測してみたい。
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加古川市のニッケ専用線1

2006/01/22 22:31
兵庫県産業遺跡マップにようこそ!
このブログでは、兵庫県下の知られざる産業遺跡を訪ねます。
第1回は、非常に珍しい存在ながら意外と知られておらず、
なぜかウェブ上でも殆ど語られない
「宝殿〜加古川間の日本毛織専用線」です。
ちなみに私は実家が兵庫県高砂市であり、
実家から一番近い廃線跡がこれになります。
第1回は、現役当時の様子から。

加古川市は、古くからの山陽道の宿場町である。
この町に鉄道が開通したのは1888年、
既に100年以上前のことである。
その後加西、西脇、三木、高砂へと至る播州鉄道も開通し、
町はジャンクションとして繁栄して行ったのだった。
1899年、加古川に日本毛織(以下ニッケ)加古川工場が操業を開始する。
加古川駅開業から1年後である。
工場は現在も存続するが、
煉瓦が多用された味のある工場だ。
おそらくかつては相当繁栄していたのだろう。

1919年、加古川西岸の現山陽本線南側に、
ニッケ印南工場が竣工する。
大正8年のことだ。
ちょうど加古川を挟む形で右岸と左岸に工場が設けられる。
 
この印南工場と加古川工場は、
加古川の流れで分断されているが、
かつては専用鉄道で繋がれていた。
その鉄道は、
延長500メートルを超える加古川を渡り、
社専用の機関車を保有し、
国鉄宝殿駅にまで至る総延長3.2キロにも渡る鉄道であった。
1企業の専用線にしてはかなりの規模と思われるが、
不思議なほどにこの専用線についての情報が異常に少なく、
謎の多い軌道である。
唯一の情報源である、ネコパブリッシング刊
「トワイライトゾーンマニュアル10」巻末付録に、
専用線一覧表が掲載されており、
簡単ながらも概要を知ることができる。
しかし、廃鉄界ではメジャーな書籍に掲載されているとは言え、
この専用線が専用鉄橋で加古川を渡っていたことを知る人は、
ごく少ないと思われる。

”接続驛又ハ所管驛〜宝殿
 契約相手方〜日本毛織株式会社
 作業方法〜社機關車
 作業哩(マイル)〜2(約3.2キロ)
 専用線ノ種別〜鐡道”

上に掲載内容を記載したが、
「延長3.2キロ」と結構長い距離である。
ちなみに山陽本線の加古川〜宝殿間の距離は、3.3キロであり、
殆ど同じである。
ここからも、既に大正12年には加古川に鉄橋を架け、
加古川工場〜印南工場〜山陽鉄道宝殿駅を結んでいたことがわかる。

そもそもこの軌道を知ったのは、
今から20年以上前の私が小学生の時に、
加古川市米田町船頭に残っていた煉瓦橋台を発見したからであった。
私の実家は加古川市に隣接する高砂市で、
このあたりは自転車で走り回るテリトリーだった。
山陽本線を潜る煉瓦の隧道があり、
その手前に古い煉瓦の橋げたのようなものが残っていたのだった。
子供心に「鉄道跡か?」と思っていたが、
当時は廃線跡趣味など世間に認知されておらず、
その様な資料も皆無で、鉄道の物かどうかは不明のままだった。
その後、偶然旧版の地形図を入手する機会があり、
専用線の記載を発見して鉄道があったことを確信したのである。
さらに、昭和19年生まれの父親に確認すると、
「山陽本線と国道2号線との間にもう1本鉄道橋があった」と言うのである。
もっと早く父に聞けばよかったと思ったが、
生憎父は鉄道に全く興味が無く、
それ以上の情報は得られなかった。
しかし、父は昭和36年から、
国鉄宝殿駅より神戸まで通勤しており、
この当時にはまだ鉄橋があったようである。
下図は昭和36年版の国土地理院地形図である。
画像

ご覧のように、
専用線の記載は印南工場内から加古川を渡り、
加古川工場内で終わっているが、
この当時は宝殿駅までの軌道は既に廃止されていたのだろうか?
また、昭和42年専用線一覧には、
既に宝殿からのニッケ専用線は記載されていない。
さらに昭和42年の航空写真では既に加古川鉄橋が撤去されており、
これらの事から遅くとも昭和40年頃までに廃止撤去されたと思われる。

下図は昭和22年に米軍が撮影した航空写真だ。
画像

画質が悪くて申し訳ないが、
宝殿駅から山陽本線に沿って軌道が東進し、
印南工場内を抜け、加古川を渡っているのが確認できる。
やはり軌道は実在したのである。
以上の点をまとめると、
専用線の開設は大正10年前後、
その後、昭和30年代の早い時期に宝殿駅〜印南工場間が廃止され、
残った区間は昭和30年後半ごろまでに廃止、撤去されたのではないだろうか。
先述のマニュアルによれば、
機関車は”社専用機”が使用されたとある。
大正12年の段階で専用機関車を持っていたのである。
当然当時は蒸気機関車だろう。
延長500mにも及ぶ一級河川を渡る専用鉄橋と専用機関車、
なんと壮大な専用線だろうか?
創業当時から使用した蒸気機関車が老朽化し、
加古川鉄橋の維持管理も負担となり、
専用線そのものを放棄したのではないだろうか?と考えられる。

次回は現在の廃線跡の様子をレポートする。
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